マリンスノーの輝き

マリンスノーの輝き

残したい想い 海に降り積もる雪に

原点にして頂点

AbemaTVさんで放送された「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ」の[前編]始まりの物語、[後編]永遠の物語 の一挙放送を観終わりました。

久しぶりに通して観たということもあり、未来の自分のために今思ったことを書き残しておきたいと思います。どうせこんなブログ覗きに来る超物好きなオタクなんて、いないでしょうしね(笑

 

 

 

 

さて、私は言わずも知れた(?)まどマギオタクであるわけですが実は

 

本編は両手で数えるほどしか観てないんです

 

「そんなんでよくまどマギのオタクとか自称できるなww」とか言われると思います、実際自分も思います、恥ずかしい話ではありますが……

1回1回を大事に観てるつもりではありますがやはり回数には敵わないですし数年前のアニメで、アニメも映画も既にBD/DVDが出ている今こんだけ熱が浅いままではアカンやろ!ということで今回の一挙放送を観ることになった、というのが正直なところです。

まぁ、まどマギにハマったきっかけというのが、ニコ動のパンツレスリングの空耳を各キャラにアテレコする本編まがいのMADっていう時点でお察しですが(小声

 

 

 

本題に戻りましょう

勿論このブログは「雑記」をポリシーとして書いてるわけなので、時系列云々関係なく書き殴っていきます、そもそも自分のためのブログなのでかしこまる必要も無いですしね

 

まずひしひしと感じたのは、まどマギに登場する人物の「理想」と「現実」の噛み合わなさというか、食い違いというかの不条理さですかね。

言うても、まどかやさやかは中学二年生です。無償の慈悲や正義を掲げるといったことも許されちゃう年代ですし、そういう感情を抱いてもおかしくない年代でもあると思います。優しいことが一番、とか思いこんでいる時代もつい最近まで自分にもありました。

でも現実はそうではない、そう突きつけるための存在がキュウべぇをはじめとするインキュベーターです。このインキュベーターと他のメンバーとのやり取りで、幾度と現実と理想の食い違いや、時には不条理さというものを感じました。

年取るのは嫌ですねぇ、当時はこんちくしょうと思ってたキュウべぇの言ってることがすごいよく分かるんですよ。こうやって輝かしい理想から離れていくんだなぁって、正義のヒーローなんて所詮夢見事なんだなぁって思うようになってしまいました。

あいつも"間違った事は言ってない"んですよね、"聞かれない限りは"真実を言わないですし。近年の悪徳商法そのものじゃないか(呆れ)(風刺)

そんな変えようもない現実を直視してもなお、希望を捨てることが間違ってると言い張るのが鹿目まどかという少女ですよ。彼女の優しさは、人に安らぎを与え、時には人を不幸にし、最終的には希望となる。芯を曲げない"優しさ"だからこそなし得たことだと思います、現実世界にいたらどんな聖人だよってなりますよね(概念になるとまではいきませんが)

 

この歳だから言えるけれども、悪く言えば「子供っぽい」んですよね、登場人物の発言は。年相応だから全然いいんですが

それが如実に現れてるのが、美樹さやかちゃんなんですよね、あの娘は本当に人間臭く描かれていて好きです。年相応のおちゃらけ具合、恋の不器用さ、正義is全てといった考え方、さらには魔法少女になってからの後半の自暴自棄さも、思春期の女の子といったところでしょうか。そんな娘に重すぎる宿命を背負わせるインキュベーターやっぱ許せねぇなオイ

そんなインキュベーターサイドから見れば、さやかは「理想の第2次性徴期の娘」のモデルケースとして最適だったんでしょう。他の魔法少女でも、「そうならざるを得ない状況」だったマミさんは例外としてそんな感じで魔法少女として契約を結ぶことも多かったでしょうし。

さやかも本当に可哀想な女の子でしたね、色々な意味で。傍から観たら(メタな話アニメを観れば)、今まで献身的に尽くそうと奔走してたさやかに退院の時期や復学の時期を伝えてもらってない上条の思いが見えてこなかったり、挙句の果ては仁美に取られそうになったり、踏んだり蹴ったりですよホント。自分って何だったんだろうってなりますよそりゃ。でもそれが現実、口に出さないと分からないという現実。作中でもさやかが上条に「好き」と思いを伝えたことは無かったし、「明るく優しい幼なじみ」ってポジションから動きはしなかったんでしょうかね

 

 

とりあえずはこんなところで、明日は叛逆の物語も放送するみたいなので楽しみにしてます( ˇωˇ )

【聴いてから読んでね】HAPPY PARTY TRAINの行く先

発売直後ということもあり、ネタバレ回避のために適当にこの曲聴いて思ったこと、考えたことをざっくばらんにまとめていこうと思います。

 

まずこの曲を試聴動画で初めて観て・聴いた時に違和感を感じました。

曲の歌詞はすごい前向きなのに、PVの断片断片がどこか後ろ向きというか、少なくとも真ん前を向いてはいないなと。

駅のホームで電車を待つ物憂げな表情をする果南ちゃん、その電車の行く先は……

多分この真相は発売されるCDに付いてくるPVを観ないと分からない……という含みを持たせた試聴動画を公開するランティス、さすが汚い(褒め言葉

あとはこの曲のイメージとしては「一期一会」というのも持ちました。「はじまりと(さよならを) 繰り返して」という歌詞からです。

もしかして果南ちゃんは他のメンバーから離れてどこかへ行こうとしてるんじゃないか、"一期(いちご)"のシーンだけで"一会"はあるのかという不安も少しありました、少しね。

 

 

そしてついに曲が発売され、フルの歌詞が公開されました。何度かその歌詞を噛みしめて噛みしめてみました

 

ひとつ気になったのが、最初のサビと最後のサビで歌詞が微妙に違う、という所です。

最初は「期待"で"かがやく瞳なら見えるよ」「遠い駅できっと何かが待ってる"ね"」

最後は「期待"に"かがやく瞳なら見えるよ」「遠い駅できっと何かが待ってる"の"」

前者は外的要因から成り、希望観測的な歌詞

後者は自発的な要因から成り、確信を持ったような歌詞になってます。

前半は、わざわざ助詞を変えてるという事は何かあるということでしょう、現に前者だと「(他からの)期待」という風にもとれますし、後者はより直接的な助詞を使ってるのでおそらくその違いを出したかったのではと思います。古い言い方でいう「てにをは助詞」というものです

後半のこの移り変わりは、その間に何かあったということになります。果南ちゃんの憂いげな表情から発せられる「待ってるね」は、途中メンバーからの刺激を受け確信に変わり、清々しい表情での「待ってるの」に変わった、ということになると思います。

 

「開いた花の香り」という所やセンター投票上位メンバーのソロパートの背景などから、μ'sの歌う「僕たちはひとつの光」からの繋がりなのでは、と推測する意見もちらと見ましたが自分は違うと思います。

Aqoursのみの時系列でみると、アニメ1期が終わり、1stライブが終わり、やっと「0」が「1」になりました。そのことを"花が開く"と比喩し、「香りから受け取った次の夢」というのがこれから始まるNext Projectのことなのでは、と予想しております。

 

詳しくはまた省きますが(逃げ)、歌詞を見て総括すると「ワクワク」「ハラハラ」という期待ばかりではない、不安もあるといった複雑な歌詞の内容からもとれるように、このHAPPY PARTY TRAINという曲は、"0から1になったAqoursの今を活きているそのまんまの姿"を表した曲なのではと思いました。

 

 

 

※ここからはPVの全てのカットになにか意味があるのでは?という前提で話します

 

 

花丸が焼き芋を作ってたのはただ食べたかったからだと思います(真顔)

でも最後で「おいも焼けたずら♪」と言ってたので、果南ちゃんに差し入れしようと思って作ったんですかね。優しいのぅ

最初はルビィちゃんと食べようと思って作った、みたいな想像もできますね。おいも好きですしルビィちゃん。

 

善子のいたドールハウス、実在するところ(ドールハウスKIMURA さん)みたいですね、これには驚き。興味がある方は行ってみては

で、あのドールハウスで善子が見てたAqours人形、1年生だけ何か特徴のあるものを持たせてるんですよね。ルビィはペロキャン、花丸は本、善子は黒羽と。

もしかしてこの人形作ったの、善子自身なんじゃないかと思ってます。善子人形を列に置いた時の満足げな顔からも多分そうなんじゃないかと。後々のちょっとした伏線にもなるんですかねこれは。

 

梨子ちゃんはメロディを完成させ、千歌ちゃんは(部室の机上に積んであったみかんを全て貪り尽くしつつも)歌詞を完成?させ、果南ちゃんの元へ行く準備を済ませ向かう曜ちゃん。

 

理事長室のやりとり、もっと見たかったなぁと個人的には思ってます。「鞠莉さん!行きますわよ、果南さんの元へ!」なんて言ってたんですかねダイヤさん。二人の表情は危ういものを止めに行くような切迫したものではなく、楽しさを全面に出した表情でした。(ここまだ書ける)

 

 

そしてこのPVの一番のミソであり、歌詞も一番の議題点となる部分、「意外な人がそばにいた?」の所で、幼少期のメンバーが出てきます(ルビィちゃんは初出!)

 

先に結論から言うと、あの幼少期のメンバーはPVで踊っているメンバーと同一なんじゃないかと考えています

…これだけ言われるとなんのこっちゃ分からんと言われてしまうかもしれませんが、少なくとも"私服の姿でいるAqoursメンバー"とは別個のものと考えるべきなのでは、と。

勿論、幼少期メンバーが実際に電車に乗ってたなんてことはあり得ないのであれは果南ちゃんの想像が作り出したもの、とでもしておきましょう

今を生きる自分はどうするべきか、どこへ向かうべきか迷う果南ちゃん、そこに現れた幼少期のメンバー、その目的はおそらく果南ちゃんを正しい未来へ導くレールを築くため。

そして希望にあふれる歌を歌うメンバー、その衣装は駅員。同一した道先案内人という役割を担ってるような気がしてならないのです。

 

「意外な人がそばにいた」というフレーズはいろいろな解釈が出来ますが、このPVだけに関した話なら果南ちゃんにとってそれは「今までのAqoursメンバー」だと思います。あまりにも近くてあまりにも当たり前のような存在だからこそ、思い悩み迷う時に見失ってしまう存在、なんて経験がある人もいるんじゃないでしょうか。

そんな"意外な人"たちが、明日が呼ぶ先へ向かう果南ちゃんを察知して集まるわけです。アニメ的な展開でいうなら、千歌ちゃんあたりが「私たちは9人でひとつなんだよ、1人じゃダメだよ。」と果南ちゃんに訴えかけ、他の誰かが「一人で明日に向かうんだったら、その電車にみんなで乗り込めばいいじゃん!」と言い出すんでしょうね。青春だなぁ(涙)

 

で、私服のメンバーと衣装メンバーが同一でないと決定づけたのがPVの最後のシーン。私服の果南ちゃんが見上げた空の先に、空を目指して進む電車に乗る管区長の果南ちゃんがいた、という所です。

情景描写的にものを言うと、同じキャラが2人も描かれてるというのは過去の自分と未来の自分、みたいに何かを機に考え方や生き方が変わった後と変わる前、というのを表すために描かれるものだと考えてます

つまり私服の果南ちゃんを無事終着駅にたどり着かせたのは管区長の果南ちゃんであり、私服の果南ちゃんの手を取り迷いを晴らした幼少期の果南ちゃんとも同一の存在である、と考えてみてもいいのでは?と思い、先程の結論を出してみました。

さしずめ、駅員の衣装を着た他のメンバーも幼少期の姿となって私服の果南ちゃんの前に現れ、そこから管区長を筆頭に道を創っていった(レールを敷いて終着駅に着くようにした)っていう解釈でもいいのではないでしょうか、ちょっと都合よすぎですかねw

今更ですがPV最後のサビで果南ちゃんのソロが入る時にエメラルドグリーン色のレールが敷かれた時は鳥肌が立ちました……人って本当に感動すると言葉失うんですね。

エメラルドグリーン色の草原(ファンのサイリウム)に浮かぶレール(舞台演出)、2ndライブで再現されることを期待してます!

 

PVを観た人の大体が思った「結局果南ちゃんはどこへ向かったのか」という疑問ですが、それは恐らくこの夏の2ndライブ、ないしは先日のニコ生で発表されたファンミーティング、だったとしたら胸が熱くなりませんか?

自分たちAqoursのファンはもちろん今後控えてるステージを楽しみにしてはいますが、Aqoursの皆はこれまでの活動や1stライブ以上のプレッシャーも感じてると思います。私服の果南ちゃんの見せた表情は、もしかしたらAqoursのメンバーが抱えるプレッシャーからの苦悩の表れのようにも感じ取れました。それはHAPPY PARTY TRAINが"今この時を活きるAqoursの姿"を表した曲だと思うからです。

さらにたたみかけるようにイベントの数々で、Aqoursの皆の体が果たして持つのかというような心配も自分はしています。そんな心配も跳ね除けるでしょうよ、という楽観的なことを言ってしまえばそれまでですが、何があるか分からないのも実際のところあるので、決して無茶せずこれからのステージ作りをしていってもらいたいですね……

 

 

 

以上がHAPPY PARTY TRAINを聴いて、PVを観て思ったこと(+α)です。一曲にこれだけ思いを馳せたのは初めてのことですかね、それだけこの曲は素晴らしいし、これからももっと輝いて欲しいって考えてるのです。果南ちゃんセンターなので(重要)

まだまだこの曲のすべてを理解したわけではないと思ってますし、これからも折に触れて理解を深めていきたいと思っています。とりあえず今はこんなこと思いましたよ〜的に見ていただけたなら幸いです。ご清覧ありがとうございました。

 

 

Pastel