マリンスノーの輝き

マリンスノーの輝き

残したい想い 海に降り積もる雪に

誇りある古典部の伝導〜映画『氷菓』を観て〜 プロローグ

おはようございます、こんにちわ、こんばんわ

初めましての方は初めまして、また会ったなという方はどうもどうも

Pastelと申します。

 

普段はラブライブ!サンシャイン!!についてあれこれ考えている自分ではありますが、自分自身の"輝き"はなにもラブライブ!だけから見いだせるとは思ってないので、今回は番外編ということで、普段とは違う筆を執ります(キーボードだけどね

 

 

知ってる方も知らない方もいるでしょうが、先日まで全国の映画館で一つの作品が上映されてました

 

その名は「氷菓

 

米澤穂信先生原作の学園ミステリー小説〈古典部〉シリーズ第一作目であるこの「氷菓」が初の実写化ということで、当時は何かと話題になりました

 

 

 

で、早速なのですが僕がまず話したいのはその"話題"についてです

 

皆さん、最近の"実写化"という言葉にどういう印象を受けているでしょうか?

「世界観がぶち壊しだ」

「キャストどうなってんだ」

「原作への冒涜」

やめてくれよ…(懇願)

などといったところでしょうか。

見事にマイナスのイメージが勢ぞろいですね、ここまで言わなくとも少し抵抗があったり不安に感じる人もいるはずです。

 

僕は、映画氷菓の話をするためにはその凝り固まったステレオタイプな風潮を突破らうところから話さないといけないなと思い、まずはこの話題から切り込んでいきます。ごめんね年取ると説教みたいになっちゃうの許して

 

 

 

まず、どうして"実写化"というものにそもそも抵抗があるのか?

それは少し考えればいくらでも出てきます、アニメ→実写は無理がある、アニメだからこその作品だろう、等々。

昔からこんだけ実写化元の作品を好きな人から言われれば、普通ならば作り手は意欲を失うでしょう。実際批判を講じている方々もそれを目的としているので。

 

 

しかし、映画監督もこのような意見が昔から出ている中で、それでも実写化に踏み切っています。それには何か理由があるのではないかと僕は思いました。

 

そして、映画氷菓を二回観て出した結論は「アニメだからこその作品でも、それを実写化することで実写化ならではの持ち味を持たせられるのではないか。だから実写化の流れは途絶えない」ということです。

 

 

 

二次元であるところの"アニメ"は、描き手の思い通りの世界をそこに作れるわけです。超能力が一般常識な世界、女の子しかいない世界、みんな美形美女な世界、キャラクターの目がやたらデカい世界etc…要するに"なんでもアリ"な世界になるから、より多様により万人に受け入れられるような作品が自ずと出来上がっていくわけです。

 

では三次元であるところの"実写"はどうでしょうか。

実際の人間に動いて喋って演じてもらうわけなので、俳優の個々の技量や制作側の技量、極端に言えば人間の行動限界が顕著に表れてくるので、どうしても現実味を帯びてくるわけです。

こうして見ると"マイナス"なイメージに思えますが、逆にあえてこれを"プラス"と捉えるとしたら……?

 

 

実写化のウマみはまさにここにあると僕は考えています。

 

 

 

現実味があるということは、ある程度実際の生活でも出来るかもという"可能性"を観る側に持たせることができます。

もっとも、CGまみれのドファンタジーな原作を実写化するっていうのなら話は別になりますが……ハガレンとか

そういう意味では、あまりぶっ飛んだファンタジーではなく現実味のあるミステリーとかの方が実写化には向いてるのかもしれません。映画氷菓はその恩恵を受けてか受けずか、従来の実写化よりかは賛否が分かれている作品です。あくまで自分が見てきた中ででは、ですが。

 

 

 

そして、映画氷菓が他の実写化された作品と違うのは、アニメがあっても小説の方のみを原作として扱っているというところです。

 

 

これは本当に、僕だけでなく映画氷菓ないしは真に氷菓を好きでいてくれている方々の総意であり物申したい部分であると信じたいのですが、映画氷菓を低評価している人は、もしかしたら原作ではなく"アニメ"を比較対象にしてるのではないか?ということです。

 

パンフレットや公式サイトにもきちんと原作は米澤先生の書いた小説になっています。

二次元と三次元を比べたら、そりゃあ二次元に軍配が上がるに決まっています。"なんでもアリ"の世界なのですから。

実際僕もこの映画氷菓を観る前は必ず小説の方を目に通すようにしてましたし、アニメ

やコミカライズは今回の場合確認用の資料として扱ってきました。どれも同じ"氷菓"なので全く蔑ろにするわけにはいかないのでね。

 

 

 

ここまで話しておきながら、じゃあキャスティングの件はどうなるんだ?ということになりますが、そこは一旦置いておくことにします。

 

 

 

「は?」

と言いたくなるのはわかります。でもそこは本当に仕方のないところであり、一種の妥協点だと僕は捉えています。監督自身も「パワフル感とお嬢様の両方を兼ね備えた方をにと広瀬さんをオファーしました」って言ってるし、多少はね?

俳優・女優なのでもちろん一番のウリは演技力にあります。実写化を観るにあたってはそこを重視するべきだと僕は思います。

 

もちろん最初は僕も思いましたよ、里志のイメージなんか違う…とか千反田さん声低っ…とか、思いましたが中盤を過ぎる頃にはそんなのとっくに忘れてました。そこは流石有望な若手俳優といったところでしょうか(何様だ

しかし、全肯定をしたいというわけではありません。どうしてもその人物になりきるにはもう一手足りない…ここをどうにかすれば!と思うところもあったので、そこは三次元の限界点として見ることにしてます。

あくまでも大事なのは演技 なんです。いかにキャラに成りきるか

 

 

 

 

 

いかがでしょうか、"実写化"という魔法の言葉に騙されないために、その裏にある思惑だったり正しい着眼点を持ちさえすれば、例え自分が好きな作品が実写化されて公開されても、変わらず好きになれるんです。

むしろ今までになかった観点や作り手の新たなコンセプトでいい刺激を貰うこともあるんですよ?

 

目に見える欠点より、目に見えない良い所を探してそれを大事にできる方が増えれば幸いでございます。

 

 

 

 

……映画の話してないや(

続きは後編にて…(原作や映画のネタバレあるから気をつけてね)

HAPPY PARTY TRAINの行く先 で見えたもの(ver.0)

お久しぶりです、どうもPastelです。

(もうファンミーティングも始まってしまってますが)Aqours 2nd Lovelive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR、無事大団円の中全公演終了しました。搭乗された方々本当にお疲れ様でした。

 

余韻に浸る暇なく、ラブライブ!サンシャイン!!2nd Seasonも始まり、まだまだ勢いの留まるところを知らないAqoursの皆さん、これからどんな軌道を見せてくれるのか、楽しみで仕方ないです。

 

 

さて、埼玉公演2日目に参加してきたのでその感想を……と言いたいところですが、今回は感想は省かせていただきます。

この広いネットで各地にいる有識者ラブライブ!サンシャイン!!に本当に真剣に向き合っている・追いかけている方々のアツい記事を読んでいただく方がよく分かるからです。

最近増えましたよねぇ、ラブライバーの方でブログを書く人。んでもって書き方上手い人が多い、僕のは下手の横好きの見よう見真似なのでまだまだですよ(先にハードルを下げておくスタイル

 

では今回何を書くのか、それは

 

HAPPY PARTY TRAINの現在における結論

 

……少々仰々しくはありますが、つまるところ"HAPPY PARTY TRAIN TOURを終えた今改めてこの曲について考える"ということをしたいわけです。

前回、曲がリリースされて数日した後に軽い考察雑記を書いたので、まだ読んだことのない方はまずこちらを読んでもらえればいいと思います。

pastel8memorandumllfinalafter1.hatenablog.com

 

前回は主にPVを主軸にして考察を広げましたが、今回はそれ以外のところからアプローチをしていこうと思います。

 

 

 

まず、前回でもあえて否定をさせていただいた"開いた花の香りから"の『花』=「僕たちはひとつの光」の『花』説、歌詞からも否定をさせていただきます。

ここで誤解をして欲しくないのは、僕は決してμ'sのことが嫌いとかAqours至高主義とかそういう類のオタクではないし繋がりがある説を撤廃したいわけではないということです。どちらも同じくらいに好きですし、ラブライブ!スクールアイドルフェスティバルオールスターズが展開された今、μ'sとAqoursの世界を繋げてもいいんじゃないかという意見もあると思います。

人それぞれ十人十色な考えもありますし、もしその繋がりが本物だとしたら個人的にも素晴らしいことだと思います。と同時に本物と証明された瞬間この記事を爆破しますけどね(真顔

 

しかし、この「HAPPY PARTY TRAIN」がリリースされた頃にはもちろんスクスタの話なんてなかったし、僕は何よりμ'sの曲はμ'sの世界線で、Aqoursの曲はAqoursの世界線で描かれたものだから各々の世界を尊重するべきと考えているので、繋がりのある説の否定をしてきました。

 

本題に戻り、今回はこのインロジカルな説も加えて少しロジカルに切り込んでいきます。

 

開いた花=開花する、と捉えるならば"開花"にはもう一つ「物事が成就する」という意味もあります。

アニメが終わり1st LoveLive!も終えた当時、まさに0から1へと確かな変化を起こせたのです。なので、そのことに対する"成就"→「開いた花」とも取れるのではないでしょうか。

 

また、「香り」にも同じように切り込んでいくと、この単語には"美しさ"という意味も含まれております。

100%綺麗、とは言えないものだったかもしれませんがアニメもライブも全力で突っ走ってきたAqoursの姿は 美しかった と僕は思います。

えてして歌の歌詞というのは、暗喩だったりいろんな例え言葉を盛り込まれるものです。選んだ言葉がたまたまμ'sの素晴らしい楽曲とシンクロしたがために、こういう繋がりがあるのではという説が生まれたのだと思うので、致し方ないとは思いますが僕はこういう風にあえて否定をさせていただきます。どちらの世界も尊重したいのです。

 

ここからは、印象的な・自分が気になった歌詞をピックアップして考えていきます。

 

 

・はじまりと (さよならを) くりかえして

つまるところ「一期一会」かと思われます。

"期"は0だった自分たち、"会"は1に進んでいく自分たちといったところでしょうか。

今までの自分たちにさよならを、これからの自分たちをはじめて行くという、成長を繰り返してどんどん強くなっていくAqoursのまさに今の姿をよく表してる歌詞だと思います。

 

  

・思い出はポケットの中

ポケットの中、というと表には出てないけどいつでも出せる距離にある場所、という位置づけができるので、今が一番大事だけど私たちAqoursが築き上げてきたものや、ファンと作り上げてきた景色ももちろん大事だから一番近いところ(ポケット=心)にしまっているよ、っていうメッセージと考えてます。

 

 

・知りたいのは素晴らしい夜明けと 切なさを宿す夕焼け

Aqoursの皆にとって夜明けは希望のはじまり、夕焼け(転じて夜)は苦悩のはじまりというのは、一期を通してそして様々なオタクさんと交流して改めて象徴的な情景描写だなと感じました。それはアニメだけじゃなくこの曲の歌詞の中でも印象づけられております。しかし今のAqoursにとっては、あまり好ましくないであろう夕焼けすらも知りたいという貪欲さ、それは素晴らしい夜明けを知ってるからこそ言えることだと思います。

苦悩が希望のスパイスになってる、というのはこの後に歌われる「ためいきもたまに出ちゃうよ」という歌詞からも読み取れます。

ため息 というのは気苦労や疲れからか黒塗りの高級車に……出るものなので、これも言わばマイナス要素です、しかしあとに続く歌詞は「ハラハラし放題!」でどう見てもこの娘たち楽しんでますよね、これがAqoursの"0から1へとステップを踏んだ強さ"なのだ……と圧倒されます。

 

 

・意外なひとがそばにいた?

これは前回のブログでも触れた歌詞です。

その時は「今までの(0だった頃の)Aqoursメンバー」と解釈をしましたが、歌詞を一つひとつ噛み締めるようにして考えた結果、新たな見方もできることが分かりました。

それは"意外なひとがそばにいた?という事実自体が意味を成している"という見方です。

これから先、Aqoursも私たちも様々な人と出会うと思います。となると、人生を積み重ねていく上で「あ、実はこの人が自分のそばにいてくれたんだな……」と言えるような人も年を重ねる事に変わっていくと思います。

この歌詞で大事なのは、未来を目指すもいい、今を生きるのもいい、過去を大事にするのもいい。でも、そうやって生きていけるのは意外と言えるほどそばにいる人のおかげでもある。ということなのではないかと思います。

Aqoursはイベントやライブを重ねる度に、私たちファンの存在もちゃんと認識してくれたり大事にしてくれています。もちろんイベント毎に会える人は限られてくるわけで、毎回会える人なんてそうそういません。それでもAqoursの皆はそのイベント毎で会えた人全員を大事にしていこうとしてる。

そういう気持ちがあるからこそ彼女達は真っ直ぐに輝けたり、その姿が眩しく映ったりするんではないでしょうか。

 ……少し盲信的でしたかね?ファンなのでこれくらいは許してください(笑)

 

 

・想いを乗せて HAPPY HAPPY TRAIN to go!あしたが呼んでる 僕たちを

ラストサビの果南ちゃんソロ、そしてPVで映るエメラルドグリーンのサイリウムの草原にどこまでも伸びる光り輝くレール、とても印象的で感動的なシーンです。

しかし、感動的なのは歌詞もそうです。

これは2ndLovelive!を終えた今だからこそ分かったことですが、この歌詞こそが「HAPPY PARTY TRAIN TOUR」の真髄ということです。

ライブのアンコール時に流れるムービーで燃料切れのHAPPY PARTY TRAIN号にみんなの想いを分けて欲しいとAqoursの皆が言ってたように、HAPPY PARTY TRAINが燃料として乗せてるのは"Aqoursが好きなみんなの想い"、そして"僕たち"と歌ってるAqoursを呼ぶのは何か?これは恐らく"私たちファン"なのではないでしょうか。「あした=ファン」という比喩が成り立つのだとしたら、これはとても嬉しいことではないでしょうか。

 

 

・とおい駅できっと何かが待ってるね(の)

青空Jumping Heartで「見たことない夢の軌道 追いかけて」という出だしがあります。

見たことない軌道、どこまでも続く線路の先にある駅……そこにある"何か"を追い求めていくためにAqoursは今がむしゃらに頑張っているわけです。そういう点で言うならば、ここは共通してる歌詞だなぁとしみじみ思いました。もしかしたら他の曲でも共通してる歌詞があるかもしれませんね。

 

そうです、Aqoursを乗せた、そのAqoursが好きなファンの想いを載せたHAPPYでPARTYなTRAINはライブが終わった後でも、まだまだどこまでも進んでいくのです。

 

 

 

自分が今まであまり歌詞についてじっくり考えるタイプではなかったので改めてまじまじと歌詞カードとにらめっこしていると、色んなメッセージがあるなぁと個人的にも満足した考察?となりましたが、いかがでしたでしょうか。

自分が思うに、このHAPPY PARTY TRAINで見せる歌詞の一つひとつないしはグループが電車の各車両になっていて、その車両一つひとつに物語や世界が乗っている、と考えてもいいのかなと思っております。

 

 

 

 

お次は、曲を飛び出し今回行われた2ndに注目して見てみましょう。

今回行われたライブは「HAPPY PARTY TRAIN TOUR」なので、これも当然考えていくべきでしょう。

 

まず、このライブの最大のミソは「想いを乗せてHAPPY HAPPY TRAIN to go! あしたが呼んでる僕たちを」です。

HAPPY PARTY TRAINの動力源はファンの様々なAqoursに対する"想い"、そして前述のとおり「あした=私たちファン」が国内三ヶ所からAqoursの皆を呼ぶという、次に行われるファンミーティングへとレールを繋げる、さらに言えばファンミーティングの先駆けとも言えるような構図にあると考えています。

そして、三ヶ所とも共通してオープニングムービーでもHAPPY PARTY TRAINが登場しており、その数箇所でHAPPY PARTY TRAINのMVでも使われたシーンが出てきています。

以上のことを踏まえると、曲としての「HAPPY PARTY TRAIN、そしてライブとしての「HAPPY PARTY TRAIN TOUR」、この二つがあって初めて"真のHAPPY PARTY TRAIN"が完成する、と僕は考えております。曲ありきのライブ、ライブありきの曲ではなく、この二つのどちらも欠けては完成しない、とも考えています。

 

あと、ライブ開催中で僕がふと思ったのが「Aqoursなのに陸上を走るってなんか違和感あるな」ということです。

ツアーなら全国的に飛んで回れる飛行機だったり、なんならAqoursにふさわしいであろう船でもよかったわけです、海を走りますし。

 

でもなぜ"電車"を取ったのか?それは、電車の方がより多くの、より隅々の場所に止まれるからです。

空港や港では場所が限られてしまいます、名古屋や神戸なら空港と港どちらもあるのでそこまでだったら電車以外の選択肢も取れたと思いますが、埼玉はどうでしょうか。

行った皆さんなら分かると思いますがメットライフドームへは、車以外だと電車でしか行くことが出来ません。なので、埼玉会場があるからこそ電車である所以が色濃くなりますし、そこを最終着駅に選んだのもそれを印象づけるためだと僕は考えております。

 

 

 

ここまで書き出しておいて、じゃあ結局のところこの曲はどういう曲なのさ?と思う方へ僕はこう答えます。

HAPPY PARTY TRAINという曲は"今"から"未来"へと足駆けていくまさにその瞬間の熱を歌う曲であり、同時にAqoursを動かす原動力としてファンの皆の想いがあるんだよというAqoursからのメッセージが込められている素晴らしい曲であると。

承認欲求、ではありませんがこうやって演者側からファンに向けての明確なメッセージがあると分かり、その内容がとても喜ばしいものであれば、ますます応援しがいがあるというものです。

こういうAqoursとファン、お互いが尊重し合い感謝し合いという構図が僕はとても好きなのです。それを伝えてくれるこのHAPPY PARTY TRAINが好きになるのは、当然だなとここまで書き出した時点で改めて身に染みて思います。

 

 

 

 

長々と書いていきましたが、ここまで読んで下さり本当にありがとうございました!

僕のHAPPY PARTY TRAINにかける想いが、少しでも伝わればとても嬉しいです。

 

これからのAqoursの活動などでこの「HAPPY PARTY TRAIN」にも新たな意味や想いが込められるとは思います(思いたい!)が、とりあえず今の時点での結論はこんなもので。

Ver.0って書いてあるって事は、つまりそういうことだと頭の片隅にでも置いておいてください(小声)

今回のブログも言ってみれば、途中下車した駅のように捉えてもらえれば幸いです、HAPPY PARTY TRAINの走るレールはどこまで続くかわからないんですからね!

 それでは、またどこかで(๑ŏᴗŏ๑)*╮

 

 

Pastel